「 救いの証し 」
米田 正夫
私は、1944年、金沢市に生まれ育ちました。
(20年程前から、金沢市の南隣にある松任市に住んでいます。)
幼稚園はキリスト教主義で、食事のお祈りをし、賛美歌を歌いました。
記憶に残っている賛美歌です。
ひかり ひかーーり
わたくしたちは ひかーりのこども
ひかーりのように・・・
小学校低学年の時、近所に、聖公会の教会に通っているご婦人がおられ、
よく、その家に遊びに行きました。
ある日、その方に、いつも疑問に思っていた事を質問しました。
「おばちゃんは、目に見えない神様がいると、本当に、信じているんか?」
その方は、穏やかな顔で静かに確信をもって答えました。
「うん、本当に、信じているよ。」
このような返事が返ってくるとは思ってもいなかったので、びっくりしました。
そして、心の中で思いました。
「そんな迷信を信じているなんて!? なんておめでたいんだろう!?」
しかし、その時の、その方が言った事や言い方は、今でもはっきりと覚えています。
小学校6年生から受験勉強が始まり、
中学校・高校の6年間は進学校で、皆についていくのに精一杯でした。
特に高校時代は、目の前の大学に入る事にしか関心がありませんでした。
なんとか、目標の大学に入ることは出来ましたが、
入学した途端に目標がなくなり、無気力な状態になってしまいました。
ある日、教授が授業の中で奨めた「医学の哲学」(沢潟久敬著)という本を読みました。
この本を読んだ時、私の中に二つの事が起こりました。
一つは、「病者のために生きるということこそ、医師にとっては他のいかなる生き方よりも
自分自身の生き方なのである。なぜなら、それ以上に充実した生活はないからである。」
ということを読み、「私もそのような生き方をしたい!」という強い思いが起こってきて、
それまでの無気力な状態から抜け出すことが出来た事です。
もう一つは、「病気を癒す方法は、西洋医学だけではなく、漢方医学などの他の方法もある。」
ということを知り、驚き、もっと知りたいという思いが起こった事です。
この時から、私の人生の求道が始まりました。
歎異抄、葉隠、ヨガ、ニューエイジ系のいやし、などの本も読みました。
その後、大変苦しい状況になった時に、あるクリスチャンのクラスメートから、
ヒルティの「幸福論」を奨められました。私は、この本から非常に大きな慰めと励ましを受け、
「キリスト教は素晴らしい!!!」と感動し、
それまでは自分とは別世界の事と思っていたキリスト教を、
自分にとって非常に身近なものとして感じるようになったのです。
(ヒルティの墓には「愛は すべてに うち勝つ」と書いてあります。)
この時から、私は聖書を読み始めるようになりました。
1967年10月頃、別のクリスチャンのクラスメートに誘われて、
ある福音派の教会に通い始めました。聖書を読んでいくうちに、
イエスさまが、ご自分のことを神であると主張しておられることに気づきました。
「確かに、キリストが素晴らしい愛の方であることは認めるが、すべての人間とは別格である
神であるとは、認めることは出来ない!」という強い抵抗感を持ちました。
しかし、教会に通っているうちに、このことも、受け入れることが出来るようになりました。
その後、私は、私の罪からの救い主として、イエスさまを信じ受け入れました。
自分が罪人(つみびと)であるということは、あまり良くは分からなかったのですが、
聖書にそのように書いてあることを信じ受け入れました。
そして、私の罪に対する罰を、イエスさまが十字架の上で身代わりに受けて下さったと、
聖書に書いてあることを信じ受け入れたのです。
初めに聖霊によって、罪を深く悟らされてから、イエスさまを信じ受け入れたほうが、
その後の信仰生活がスムーズであったのではないか、とも思いましたが、
ともかく私の場合は、このようにして、イエスさまを罪からの救い主として信じ受け入れました。
洗礼(バプテスマ)を受けた時には、
「これから一生、絶対、イエスさまに従っていこう!」と、かたく決心したのです。
しかし、数年後、私は教会を5年間ほど離れることになりました。
その時、私はイエスさまから逃げるようになりました。
しかし、心の奥底では、イエスさまに従う以外に、人としての真実な生き方はない、
ということは、はっきり分かっていました。
それでも、逃げるしかありませんでした。
でも、逃げることは出来ませんでした。
教会やイエスさまのことを忘れていても、教会の近くを通れば教会を思い出し、
ラジオから「キリスト」と聞こえてくれば、イエスさまを思い出しました。
「われいずこにゆきて、汝の御霊をはなれんや、
われいずこにゆきて、汝のみまえをのがれんや。」
(詩篇 139:7 )
「帰りたい」でも「帰れない」
「もう一生、イエスさまのところへは戻れないのだろうか?」という絶望感に襲われました。
しかし、次の瞬間、「いや、きっと戻れる!」という希望が与えられました。
その後、私は、教会に、イエスさまのもとに、帰ることができました。
私はイエスさまの手を離しました。しかし、イエスさまは私の手を離されませんでした。
「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」
(テモテへの手紙 第二 2:13a )
「イエスさまを信じ受け入れる力、イエスさまに信じ従う力は、私の中には全くない。」
という事を、私はこの事を通して教えられました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、・・・救われます。」
(使徒の働き 16:31 )
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
(エペソ人への手紙 2:8 )
「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」
(エペソ人への手紙 2:5 )
この事の背後には、妻のとりなしの祈りがありました。
その後も長い間、私は救いの確信が持てないでいました。
霊的に調子が良い時には、「私は、救われていないはずはない。」と思えましたが、
調子が悪い時には、「私は、本当に救われているのだろうか?」と迷いが来ました。
ある時から、次のみことばが、心の中にかすかに響いてくるようになりました。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
(ヘブル人への手紙 13:5d )
初めは、気づかなかったのですが、
ある時、イエスさまが語りかけて下さっていることに気づきました。
その時、「イエスさまが決して私から離れず、また、私を捨てないのなら、もう大丈夫だ。」
と、救われているという確信が与えられました。
「イエスさまが一緒なら、地獄に行ってもいいじゃないか。」とさえ思えました。
私の場合は、このみことばが与えられることによって、救いの確信が与えられました。
それからも、しばらくは、時に、迷いが来ることがありましたが、
主は、いつも、このみことばを通して、すぐに語りかけてくださり、迷いはすぐに消え去りました。
今では、迷いが来ることは全くなくなりました。
私たちは、この教会で、「聖書を通して語られる主の御声に聞き従う」ことを、
信仰生活の基本として教えられました。
実際の歩みは、主に逆らってばかりでしたが、
主について行きたいという思いは、いつもありました。
これが、私の信仰生活の基礎になり、信仰生活のスタイルになっています。
今から20年程前に、主の恵みにより、ふたりの娘が与えられ、
私たち夫婦と同じ主を信じる信仰が与えられています。
今から10年程前に、主は私に語りかけて下さいました。
「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」
(ガラテヤ人への手紙 6:5 )
「・・・わたしは あなたと ともにいる。
・・・わたしが あなたを 遣わすのだ。・・・」
(出エジプト記 3:12 )
「私のような者が、主によって遣わされる資格があるのだろうか?」という躊躇がありました。
それに、何処へ何のために遣わされるのかが、分かりませんでした。
しかし、主が語っておられると信じ、
1992年4月、25年間在籍した教会を、私たち一家は出発しました。
最初に導かれていった教会で、月刊誌「恵みの雨」を読むことを奨められ、
そこに連載中の「御声に聞き従う」(パウロ秋元牧師)に出会いました。
その後、いくつかの教会を経て、
2002年11月、主の十字架クリスチャンセンター金沢教会へ導かれて来ました。
私たちの負うべき重荷と祝福が、この群れに備えられている事を感謝しています。
今までの人生を振り返る時、
主の恵みの御手に導かれて来たことに、改めて気づかされます。
「胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。」
(イザヤ書 46:3b 〜4 )
「わが子よ。
主の懲らしめを軽んじてはならない。
主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、
受け入れるすべての子に、
むちを加えられるからである。」
(ヘブル人への手紙 12:5b 〜6 )
「・・・霊の父は、私たちの益のため、
私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、
懲らしめるのです。」
(ヘブル人への手紙 12:10 )
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、
あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」
(詩篇 103:2〜5 )
「神を愛する人々、すなわち、
神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。」
(ローマ人への手紙 8:28 )
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。
そのさばきは、何と知り尽くしがたく、
その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。
どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。 アーメン。 」
(ローマ人への手紙 11:33、36 )
2003.10.13
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